2020年6月23日

食エシカル基準がBrexitで変わる?

北海道大学大学院 市村敏伸

エシカルな食について、いま世界ではどのような話題が上がっているのでしょうか。
一橋大学在学中で、佳い食のあり方を探究する市村敏伸が、海外のエシカルニュースをテーマごとにブリーフィングしてお届けします。今回のテーマは「イギリス通商事情のいま」。本連載でもたびたび紹介してきた「エシカル先進国」イギリスでいま、食の在り方についての重大な問題としてアメリカとの自由貿易交渉が大きな関心を呼んでいます。アメリカとの自由貿易拡大によるイギリスの食への影響はどのようなものなのでしょうか?
ニュースのまとめ翻訳に興味がある方は、ぜひリンク先(※英語)をご覧ください。

ブレグジットで問われる
エシカル先進国の矜恃

歴史的な国民投票の末、今年1月末にEUから脱退したイギリス。このBrexit(ブレグジット)とも呼ばれるEU脱退騒動は、一段落ついたようにも見えます。しかし、食の分野では、今まさにブレグジットに端を発する議論が巻き起こっています。

イギリスといえば、本連載でもたびたび取り上げてきた「エシカル先進国」であり、極めて高い食の生産基準と、エシカルな消費を推進する社会システムと国民性を誇る国。そのイギリスが、EUから脱退したいま、国内の食の在り方を問われる極めて重大な局面にあるのです。

きっかけは、ブレグジットに伴い世界各国と新たに締結することとなった貿易協定。特に、最大の貿易相手国であるアメリカとの農産物の通商交渉をめぐり、英国内で大きな議論が生じています。イギリスでは消費者が求める安心感へ最大限配慮した農産物の生産基準が求められる一方、アメリカをはじめとした外国の一部では科学的な安全性が重視される傾向にあります。これまでのイギリスでの食の価値観とは異なる農産物の輸入をよしとするのか。この問題は、イギリス国内で生産される農産物生産の在り方にもつながりかねない重大な問題で、交渉の本格開始以前から国内の食の品質を保障するための動きが活発となっていきました。

しかし、自由貿易の進展は同時に高い経済メリットもイギリスにもたらします。そこには高い品質を誇る英国農産物の輸出拡大も含まれ、農産物の輸出への依存度が高いイギリスにとっては簡単な問題ではありません。

食を取り巻く複雑な通商問題にイギリスはいかに取り組み、そして今どこを目指しているのか。今回は、エシカル先進国イギリスが直面するこの問題にスポットを当てます。

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通商交渉が本格化
農産物保護の立法は失敗に

今年1月末に正式にEUを脱退したイギリスは、各国と新たな貿易協定を締結することとなりましたが、新型コロナウィルスの感染拡大で交渉日程に遅れが生じ、5月になってようやく日本も含めた各国との交渉が本格化しています。

この新たな貿易協定を結ぶ上で、食の観点から懸念されているのが輸入農産物の品質に関する問題。イギリスは世界でも最高クラスの食の安全基準を誇り、農薬の使用制限など国内の食の生産工程に厳しい基準を設けています。それが、新たに締結する貿易協定によって生産基準が保証されない安価な農産物が輸入されることになるのではないかと、イギリスでは大きな関心を呼んでいます。

こうした世論を受け、英議会では早くから通商交渉での国内農産物の保護を法律に盛り込もうとする動きが起こります。

農業法改正案 イギリス農家のために奮闘した議員は誰だ?
2020515Farmers Weekly

英下院の農業担当委員会の議長を務めるニール・パリッシュ下院議員(与党・保守党)が中心となって推進してきた農業法の一部改正案では、ブレグジットに伴う今後の通商交渉において、輸入される農産物と国内農産物とが「公正な条件」(Level playing field)となるよう政府に求める内容が盛り込まれ、輸入品の品質基準や高い関税率の設定などによって国内農産物の保護を図ります。この改正案は国内農家からも強い期待と関心を集めますが、先月13日に行われた下院での採決の結果は51票差という僅差での否決。この輸入規制をめぐり議会での賛否が二分される状況の背景となっており、反対派の警戒感を強めているのがEU域外での最大の貿易相手国であるアメリカとの交渉です。

英米通商交渉を取り巻く
複雑な事情

「貴重な機会」羊産業が期待する米国への輸出拡大
202055 Farming UK

イギリスにとってアメリカは、EU域外への輸出の約3割を占める最重要貿易パートナーであり、アメリカとの自由貿易協定は高い品質を誇る英国農産物にとって輸出拡大に向けた絶好の機会となります。全英羊産組合は、米国との貿易協定を輸出拡大に向けたチャンスと捉え、交渉開始を歓迎すると発表。イギリス産羊肉の高い品質への自信を背景に、アメリカでの市場開拓に期待を示します。

しかし、安価な米国農産物の生産環境はイギリス国内の一般的な生産基準を下回る場合が多く、輸出枠確保のために国内市場を米国農産物に開放することへの警戒感が農業界では強まっていきます。なかでも懸念されているのが、米国産の鶏肉や牛肉、そして農薬使用の問題です。

塩素殺菌の鶏だけではない 英米貿易協定がもたらす5つの食品
202032 The Guardian

アメリカでは鶏肉の加工工程での消毒に次亜塩素酸水を用いますが、イギリスをはじめヨーロッパでは水は使わず冷気をあて空冷させるエアチルと呼ばれる方式が一般的。この塩素殺菌が施された米国産の鶏肉は「Chlorinated Chicken」と呼ばれ、アメリカとヨーロッパの農産物貿易における長年の対立の象徴でもあります。さらに、アメリカの工業的畜産で牛に投与される肥育ホルモンの存在や、イギリスに比較して極めて緩い農薬制限も米国産農産物への市場開放の懸念の一因となっており、とりわけ農薬については、国内の青果市場での価格競争の結果として今後イギリス国内でも農薬使用の基準を緩和せざるを得ない事態になるのではないかという懸念も一部では表明されています。

仮にイギリス国内での農薬使用が増加すれば、厳しい食品安全規制を敷くEUへの青果物の輸出は難しくなり、国内で生産される青果物の60%EUへ輸出するイギリスにとってその影響は計り知れません。

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サイエンスか安心か
輸入自由化へ舵をとる英政府

こうした米国農産物に対するイギリス国内で高まる警戒感を受けて、アメリカ側は苛立ちを見せています。

米国の「危険」な食品をめぐり難航する貿易交渉
2020618EURACTIV

イギリスと並行してEUとの交渉も進める米国のライトハイザー通商代表は「EUにもイギリスにも、アメリカの食品は危険であるという考えが共有されているようだ」とした上で、「アメリカの農業は世界で最も優れ、かつ最も安全である」と述べ、米国産農産物の安全性を強調。さらに「我々はサイエンスと消費者の嗜好とを混同してはいけない」と発言し、農産物輸入について科学的な見地からの判断を求めています。

これに対して、英議会で農業法改正案を推進したパリッシュ氏は改正案否決後に、「私はアメリカの皆さんに訴えたい。なぜ貴国は食の生産レベルを向上させないのか?〜中略〜より良い鶏肉を作ることはアメリカのためだけでなく、我が国への輸出をも可能にする」と述べ、科学的な安全の重視を訴えるアメリカと、消費者目線からの安心を追求するイギリス政府内の意見との対立が鮮明になっています。

こうしたアメリカと国内反対派との間で板挟みとなり苦しい状況にあるのが、リズ・トラス国際貿易担当大臣。英政府内では与党からの反対論に加えて、農業・環境当局からの慎重論も根強く貿易交渉がタフさを極めるなか、有力紙「テレグラフ」が、政府がアメリカ産鶏肉の輸入解禁に向けた準備を進めていると報じ、英政府が米国農産物の輸入を進める方向であることが明らかになります。

英政府、塩素消毒された鶏肉の輸入解禁に向け準備
202063 The Telegraph ※有料)

英政府、塩素消毒された鶏肉に対して市場開放へ
202064 INDEPENDENT

塩素消毒済の鶏肉やホルモン投与によって肥育された牛肉を含む米国農産物が関税付きで輸入が解禁される方向で検討が進められており、トラス大臣をはじめ政府は10年後の完全自由化(関税ゼロ)をも視野に入れ、10年を移行期間と捉えて国内の体制を整えたい考えです。なお、イギリスの市場開放と引き換えに英国産農産物のアメリカへの輸出拡大も約されており、政府は農家にとって「大きな利益」と強調します。

嘆願は100万以上に
注目される今後の動向

アメリカからの農産物の輸入拡大を前に、イギリスでは農家による反対運動が広がりを見せています。


イギリスで農産物基準の嘆願署名100万に達する
2020618 Farming UK

イギリス最大の農業者団体である全英農業者組合(NFU)は、輸入農産物の基準制限を求める嘆願運動を展開し、18日までには署名総数が100万を超え、農業界は引き続き政府に対して交渉の見直しを求めていく姿勢を見せており、今後の国内世論に与える影響も注目されます。

エシカル先進国イギリスがブレグジットを機に直面している食の問題。それは、外国産の安価で品質が必ずしも保証されない農産物の流入の危機であると同時に、高い品質を誇るイギリス農産物が外国に活路を見出す機会でもあり、産業の持続可能にとって不可欠な経済性という観点からは単純な結論を下せない問題でもあります。

食に関して極めて高い関心をもつイギリス社会は、この複雑な問題に対してどう対処するのか。そして、いま輸入の自由化に舵を取ろうとしているイギリスでの今後の食の在り方は、世界のエシカル事情にどのような影響を与えるのか。英米貿易交渉をめぐる今後の動向に世界の注目が集まっています。

2020年622日執筆

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プロフィール
市村敏伸(いちむら・としのぶ)
1997年生まれ、一橋大学法学部卒業。大学在学中にライター活動を開始し、現在は北海道大学大学院農学院に在籍中。専門は農業政策の形成過程に関する研究。
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