2019年9月13日

イギリスミルク戦争

北海道大学大学院農学研究院准教授 小林国之

ヨーロッパのエシカル事情をよく知る小林国之先生による現地ルポ。第1回目は2014〜15年にイギリスで起こったミルク価格戦争について。なぜ牛乳の価格破壊は起きたのだろうか。そして価格破壊が農家にもたらしたものとは?

※本記事は2019年10月30日に一部修正しました

21世紀に起きたミルク価格戦争

2014〜15年にイギリスで起こったミルク価格戦争をご存じだろうか。
イギリスは、ヨーロッパのなかでも最も大規模な酪農の国である。一方で酪農が作り出す田園風景、農村の様々な文化はイギリスらしさの象徴ともなっている。農業保護政策が浸透しているヨーロッパの中でも、イギリスは最も「競争原理」に親和的な国である。
競争することで、今の強い酪農経営が作られてきた。コスト低下の競争によって、消費者も安い乳製品を享受できる。

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こうした「競争原理に基づく産業としての酪農」と「イギリスの伝統文化の一部としての酪農」との相反する要素のバランスによって、イギリス酪農は成り立っているといってよいだろう。そのバランスがこれまでの規則性を超えて大きく揺らいだのがミルク価格戦争であった。

生乳指定団体制度が解体して起きたこと

milkprice_UK.JPG上記の図表で2004年から2019年までのイギリスの農家の手取り乳価と生産量を見てみると、農家の手取り価格は、毎年季節毎に変動をするというのがパターンを示している。ところが2014年から15年にかけてパターンが大きく崩れ、生産コストを下回る乳価となり、酪農家は悲鳴を上げた。

乳価低下の原因は3つあった。1つは、EU全体で取り組まれていた生産調整の制度(ミルククォーター制度)が2015年3月に廃止されることを見越して、生産が拡大基調にあったこと、もう一つがウクライナとの紛争の影響でロシアがEUからの輸入を禁止したことで、輸出国であったイギリスの乳製品の行き場がなくなったこと。こうした供給面の要因にくわえて、スーパーマーケットがサプライチェーンのなかで強い力を持っているという流通面の要因があった。

これまでも乳価が生産コストを下回ることはあった。息を止めて水面に顔を沈める我慢比べをくり返しながら、イギリスの酪農は生き残ってきたのである。しかし、この時期は、前述のように国内の需要と供給のバランスの問題というよりも、スーパーマーケットの強すぎるバイイングパワーとサプライチェーンの不透明さが原因と受け取られたことで、酪農家は抗議の声を上げた。酪農家がスーパーに行き、棚にならんでいる牛乳を自分達で買い占めて、消費者に無料で配布するという抗議行動や乳業工場の封鎖なども行った。

かつてイギリスには日本の生乳指定団体制度がモデルとしたミルクマーケティングボードがあり、一元的に乳業メーカーとの価格交渉を行っていた。それが1994年に市場原理の重視の流れをうけて解体された。それ以来、酪農家は個別にメーカーと契約し、メーカーは乳製品を製造してスーパーマーケットに卸している。

イギリスは日本以上に小売り段階でのスーパーマーケットのシェアが大きい。2015年のBBCの報道によれば(https://www.bbc.com/news/business-18951422)、1リットルの牛乳の酪農家の生産コストは31ペンス、農家の手取り乳価は24ペンス、乳業メーカーと小売りのコスト・マージンを加えた店頭価格は47ペンスとなっていた。酪農家は1リットルあたり7ペンスの損失を出しながら、生乳を生産していたのである。

スーパーにとっては、牛乳は目玉商品として低価格に設定されて、お客を集める商材として使われる。スーパーマーケットは「実際の店頭価格と農家の手取り価格とは関係なく、低乳価は私たちのせいではない」と主張した。だが、国内で生産される生乳の半分が飲用乳としてスーパーを中心に販売されているイギリスの構造の中では「関係ない」という言い訳は通らないであろう。さらにスーパーは「生産者には公正な乳価を支払っている」という。これは事実でスーパーは一部の生産者グループを組織して、そこには適正な価格を支払って囲い込み、その一方で必要な生乳を随時酪農家と契約しながら集めている。低価格に苦しんでいるのはそうした酪農家であった。毎日生産され、保存することができない生乳を生産する酪農家は買い手に対して弱い立場にならざるを得ない。

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酪農家は、抗議活動だけではなくイギリスに酪農があることの価値、意義を直接的に知ってもらうための取り組みを行った。牧場に人を招く取り組み、放牧酪農によって生産された乳製品を認証しようという動き、身近なところに酪農があるがゆえに可能な無殺菌牛乳の取り組みなど。

このミルク価格戦争の間、主産地である「イングランド・ウェールズ」の酪農戸数は2011〜2014年では年率平均で1.2〜2.9%という酪農家の減少率であったが、2014年〜2015年は4.4%(447戸の減少)となった。それまでも年率5〜7%近い割合で農家戸数は減少していたが、直前の高い乳価のもとで安定的に生産を拡大しようとしていたその矢先での減少は、大きなインパクトを産業にもたらしたのである。

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ミルク価格戦争は、市場原理の名の下で産業としての競争力を確保するための必然のプロセスだったといえる。消費者にとっても、安く牛乳を買えることは歓迎すべきことである。しかし、その過程で酪農家が受け継いできた酪農文化・イギリス農村文化の一部も失ったのかもしれない。

需要と供給は市場が自動的調整してくれる。その理論が実社会に適用されるとき、そこにはさまざまな問題が生じるのである。

 

プロフィール
小林国之(こばやし・くにゆき)
1975年北海道生まれ。北海道大学大学院農学研究科を修了の後、イギリス留学。助教を経て、2016年から現職。主な研究内容は、農村振興に関する社会経済的研究として、新たな農村振興のためのネットワーク組織や協同組合などの非営利組織、新規参入者や農業後継者が地域社会に与える影響など。また、ヨーロッパの酪農・生乳流通や食を巡る問題に詳しい。主著に『農協と加工資本 ジャガイモをめぐる攻防』日本経済評論社、2005、『北海道から農協改革を問う』筑波書房、2017などがある。
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